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メメント・モリ(前) 


 私の手元にある小さな宝石箱、それ一つで莫大な財産となるような価値を秘めた品。改めて言うまでもないことだが、その中味が空っぽだとしても――、だ。
 それはピクゥエという技法を用いて作られた、一世紀以上も昔の芸術品。その年代に相応しい古風で優美なデザイン、金銀や宝石を贅沢に用いた緻密な象嵌……、どれをとっても十九世紀の欧州で貴顕の間で流行したという逸話を偲ばせるには十分だ。
 だが、今の私にとっては何の価値も無いように思われた。
 わずかに震える手で掌の上に載せ、ゆっくりと蓋を開く。宝石箱の中には仄かな暗い室内の明りでさえ眩い輝きを持つ、幾つかの宝石が収められている。どの石も莫大な価値を持つものばかりだ。
 私は緩慢な動作で俯き、懐かしむように宝石箱を覗き込んだ。
 その時。
 ボトッ……。茶色いネバネバした糸を引きながら、恐らく酷い臭気を放ちながら――私自身は既に臭気とは無縁なのだ――、腐肉の塊が宝石箱の中に落ち込んだのだ。
 それは腐った眼球、私自身のものだった。
 顔面の筋肉組織が腐敗し、同じく腐敗し膨れ上がった眼球の重さを支えきれなかったのだ。
 虚ろになった眼窩からポタポタと腐汁が滴り、華麗な宝石箱を醜く汚していく。
 そう、私の身体は腐敗し崩壊しつつあったのだ。
 それに気づいて何日経ったことだろう。
 記憶は酷く曖昧だった。だが私はそれでも生きている。
 文字通り、生ける屍として。あるいは腐り崩れていく一個の怪物として。


「旦那様、お顔の色が悪いようですが、お加減でも」
 異変に気づいた発端は、そんな使用人の言葉だった。
「いや、なんでもないが……」
 軽く言葉を返事をしながら、何気なく鏡を覗き込んだ。
 鏡には見慣れた顔が鏡に映っていた。そこまでは普段と何も変わらない。だが信じられぬほどの顔色の悪さに私は絶句したのだ。
「……!」
 慌てて顔を上げ、室内の照明を確かめる。
 室内は優しい快適な明るさが保たれていた。何ら異常はない。
 だから決して光線の具合などではない――、そう思いながら再び鏡に目を戻した。
 鏡に売った私の顔色は、青白いなどと云う生易しいものではなかった。生気が失せ青黒く変色した――、土気色としか云い様のないものだったのだ。
「旦那様、いかがなされました?」
 私の様子に気づいたのだろう、心配そうな使用人の声。
「暑かったし、しばらく忙しかったから疲れたのだろう、暑気当たりだな、今日は休む。今日の予定は全てキャンセルするように伝えてくれないか」
 動揺を隠そうと、咄嗟に嘘が口から流れ出た。
「かしこまりました」
 ドアの閉じる音が響き、使用人の姿が扉の向こうに消えた。
 室内には私一人だ。
 無意識に髪に手をやった。それは困った時の癖だった。
 指に髪を軽く絡ませると気が紛れ、落ち着くのだ。いつもなら。
「なんだ、これは!」
 私の目に映ったのは指先に絡まった数十本の髪だった。
 強く掻き毟ったわけでも、もちろん乱暴に引き抜いたわけでもない。するりと抜け落ちたのだ。まったく痛みは感じなかった。
 私の目は点になった。
「気を……、気を確かに持つんだ」
 そう自分自身に言い聞かせる。
 少なくとも痛いとか苦しいとか、自覚症状と云うべきものは何も感じない。
「大丈夫だ、そうとも。うろたえるな。そうだ、大崎に来て貰うか」
 大崎というのは、昵懇にしている医者だ。
 電話で頼めば快く往診してくれるはずだ。
「そういえば……」
 往診を頼むなら熱の有無くらい数字で言ってくれんかね――、そう言いながら冗談半分に置いていった体温計を私は思い出した。確か引き出しの中に放り込んであった筈だ。震える手で引き出しの中を探り、その中から体温計を取り出した。
「二十八度……、なんだ壊れているのか、これは。それじゃ脈拍はどうだ……」
 半ば動転しながら、左手の手首に指先を当て脈拍を計る。
「え……」
 脈動が感じられない。「ば、馬鹿な……」
 慌てて乱暴にネクタイを外して、ボタンを引き千切れるほどの勢いで外す。襟元から下着の下へ手を差し入れて鼓動をみる。
 が、鼓動は無い。
 ねっとりと冷たい肌の感触のみ、指先に伝わってくる。
「体温は二十八度、脈も無し……、私は死んでいるのか、でも生きているぞ、現に……」
 呆然としながら、それでも何度も胸の鼓動を繰り返し確認してみる。だが有るべきはずの鼓動は消失したままだ。
「医者を呼ぶのは止めだ、さらし者になるのは御免だ」
 既に心臓は止まっている。
 それに体温計が狂っているのでもなかった。何度計り直しても結果は同じだ。
 気温とほぼ等しい体温。それが指し示しているのは死人の体温であり、私自身が死体という事実だ。
 医者を呼んだとしても、この奇妙な現状を解決できるとも思えない。
 私は腕を組み、思案した。
 この秘密は何としても守らなければならない、人目を避けねばならない、と。
 そして私は行動に移した――、全ての使用人どもに暇を出し、屋敷から追い出したのだ。


《続く》

ハンス・ホルバインの版画 『死の舞踏』ハンス・ホルバインの版画 『死の舞踏』





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