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氷雪の漂泊者(12) 


 以前に湯に浸ったのは、いつのことだっただろう――、心地よい香りのする湯気に包まれて、レナは眠気に抗いながら、ぼんやりと思った。緊張が途切れたせいか、気を許すと意識が朦朧としてしまうのだ。
「里の柵は容易には破れません、父はあなたを守る、そう誓ったのです」
 壁の隔てて、キオの声が響いた。
 レナはその声に現実に引き戻された。
 命を狙う、いや命を奪った後の骸さえ狙う執念深い敵が間近に迫っているのだ。
「もっとも不穏な気配は、いまだ色濃く残っています。しばらくの間は用心せねば」
「ああ、そのようだな、わたしも感じているよ。この里に災いを呼び寄せぬうちに、この地から立ち去ろつもりだ、長どのに伝えて欲しい」
「また、そのようなことを」
「キオ、聞いてくれ。わたしは犠牲を払ってまで守る価値のある者じゃないんだ」
 レナは、そっと目を閉じた。
「幼い頃、住んでいた里を襲われ、辛うじて祖父とともに逃げ延びることができた。祖父は旅を続けながら、同胞を捜すのだと言っていた。だが、そんなものは見つからなかった。もう全て死に絶えてしまったのかもしれない。この里の人々が、そんな残り火のようなものに殉じていいはずがないんだ」
 レナの声は苦痛に満ちていた。
 それにレナ自身は気づいていなかったが、いつになく饒舌だった。
「レナさま、あなたは疲れているのです。疲れは心に迷いを生み、そのような良くない思いに捕われてしまう」
「死んだ祖父は里の語り部だった。その死に際に、遥かな過去から伝えられてきた記憶の全てを、わたしに伝えたはずだった。なのに途切れ途切れの断片以外、何も思い出すことはできない。わたしは出来損ないだ、わたしたちの歴史は既に失われ、もう閉じられてしまったんだ」
「あなたはまだ生きている。それにあなたは言われた、もともと力は誰にでもあったのだと。わたしにはそれが理解できます。仮に絶えてしまったとしても、あなたが新たに再興すればいい、それが希望にはなりませんか?」
「それは――」
 レナは言い澱んだ。「考えた事もなかった、新しい希望など――。わたしは最期の一人として凍てついた雪原を彷徨い、やがて倒れるだけなのだと諦めていた」
「さあ、傷の手当てをいたしましょう」
 キオの声と共に、扉の開く重い音が響いた。
 濃い湯気が静かに流れ出していき、その薄れた湯気の向こうから乾布と着替えの衣類を持ったキオの姿が現れた。
「まずは、これを。申し訳ありませんが、わたしのものなので、大きさが合わないかもしれません」
「いや、何もかもすまない」
「レナさまは、見かけより、ずいぶんと逞しいのですね」
 キオは乾布でレナの濡れた身体を拭いながら感嘆したような口調で話し続けた。「わたしとは大違いです」
「とくに鍛えたわけではないさ、ただ逃げ延びるために放浪を重ねてきたから」
 一瞬、苦しかった記憶が蘇る。
 何度か生死の境を彷徨うようなこともあったのだ。
 今から思えば、生きている事が不思議とすら思えてしまう。
「この里からも見えるだろう、遥か北方の銀色の峰々を越えてきたのだ」
「あの山並みを越えて!」
 うっとりと呟き、キオは瞳を輝かせた。「わたしは生まれつき身体が弱く、長生きできぬと言い聞かされて育てられました。実際、この里から遠く離れたことすらありません。あの山をなんて凄いな……、いつかお話を聞かせてください」
「ああ、いつか……な」
 そんな日がくればいい――、と続けようとしてレナは言葉に詰まった。
 キオと言葉を交わしている瞬間が、とても大切な、失い難いものに思われたのだ。同胞を探している――、その自らの言葉がレナの頭の中で蘇ってくる。今、間近にいるキオこそが同胞ではないか――、その思いが強く湧きあがってきたのだ。
 急に黙ってしまったレナをキオは気にする様子もなかった。
 丁寧にレナの身体に残った水滴を拭い、寛衣を身につけさせる。そしてゆったりとした大きな椅子にレナを導いた。
「さあ、腕を」
 云われるままにレナは傷ついた腕を差し出した。
 キオこそが同胞ではないか――、その思いで半ば思考が麻痺していたのだ。
 傷の様子をキオは注意深く観察した。血は洗い清められ、新たな出血も見当たらない。化膿の兆候もなく、幸いなことに毒なども使われてはいないようだ。
「これは矢傷ですね。深い傷ですが腕を通る大きな血管は傷ついていないようです。じきによくなりますよ」
「詳しいのだな」
 感嘆したようにレナは呟いた。
「わたしにできるのは病や傷を癒す事と、あとは心を飛ばす事だけです。怪我人の世話は慣れています」
「それだけでも大したものだ」
 そう言いながら、人を傷つけるような力などいらない――、と心の中で付け加える。そして救いを求めるような目で、傍らのキオの様子をぼんやりと眺めた。
 キオが触れた掌から、暖かな波動のようなものを感じる。
 優しい気だとレナは思った。
 傷の奥深くから、脈拍にあわせて少し疼くような感じがする。
 しかしそれは決して不快ではなく、むしろ心地よくさえ思える感覚だ。
 腕に流れ込んでくる暖かい気が、腕から胸へ、そして全身へ伝播していく。身体が火照るようような、まるで春の日差しのような暖かさ。先ほど湯に浸っていた時よりもはるかに暖かく感じられ、その暖かさは身体の芯まで浸透していく。
「眠い……、眠くなってきた」
 レナの口から言葉が漏れた。
 意識が朦朧と白濁し、何もかもが遠くに感じられる。
 満ち足りた安堵感に、自然と瞼が重くなっていく。
「無理せずに、お眠りなさい」
「ああ……、でも」
 レナはキオの言葉に逆らって、うっすらと眼をあけた。
 キオの姿を見失ってしまうのが怖く、心細かったのだ。
 傷のあたりを、ゆっくりと優しく擦っているらしいキオの姿が目に入ってくる。
 白いうなじが妙に眩しい。
 さらさらとした黒髪が零れ落ちている。
 レナは手を伸ばそうとした。
 不意にその髪に触れてみたい――、そんな衝動に駆られたのだ。
 しかし腕を上げるところか、指一本すら動かせない。
 やがて瞼を閉じまいとする最後の抵抗もついに尽きた。

 寝入ってしまったレナを起こさぬよう、キオは静かに立ち上がった。
 傍から小さな椅子を引き寄せ、音を立てないよう注意しながらゆっくりと腰をおろす。
「ゆっくりと安心して、おやすみください」
 そっとキオはレナの耳元に口を寄せて囁いた。「わたしがここで見守っていますから」


《続く》






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